「普通に生きたい」と思っていた。
大きな成功を望んでいるわけでもない。
ただ、人並みに働いて、人並みに暮らして、人並みに幸せでいたかった。
けれど、気づけばその“普通”が、どんどん遠ざかっていくように感じていた。
昇進は遅れ、同期や後輩に次々と追い抜かれていく。
SNSを開けば、同年代が家を買い、家庭を築き、順調に見える。
そのたびに、自分だけが取り残されたような気持ちになった。
悔しい、情けない、苦しい…
――そもそも、「普通」ってなんだろう?
普通に悩む僕が読み返す用に、記事を書きました。
いざです。X(Twitter)、Youtube やってます。
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「普通」って、なんだろう。
辞書を開くと、こう書かれている。
普通(ふつう)——特別でないこと。ありふれていること。一般的な状態や程度。
たしかに言葉としては正しい。
けれど、僕たちが生きている“現実の普通”は、もっと複雑だと思う。
会社では「これくらいできて当たり前」、
世間では「30代なら家を買って、子どもがいて、年収500万円くらいが普通」。
そんな“当たり前”を信じ込んで、必死に追いかける。
でも、どこまで行っても届かない。
むしろ、追うほどに苦しくなっていく。
比較の中で、普通を失っていた僕
僕はずっと、“普通”を他人の中に探していた。
同期と比べ、同僚と比べ、年下と比べては落ち込む。
昇進はかなり遅く、10歳以上年下の高卒の子に等級も給料も抜かれていた。
正直、惨めだった。
努力しているのに、報われない。
会社に行くだけで、心が削られていく感覚があった。
いつの間にか、僕の中の基準は
「周りより上か、下か」になっていた。
“普通より上”なら安心。
“普通より下”だと焦りと自己否定。
でも、その普通って誰が決めたんだろう。
何をもって、上とか下とか言えるんだろう。
そんなこと、誰も説明できないのに。
「普通」という安心を求めて、苦しくなっていく
“普通”でいることは、安心でもある。
周りから浮かないように。
ちゃんと働いて、結婚して、家を買って。
そうすれば「ちゃんとしてる人」として見てもらえる。
でもその“安心”は、他人の目の中にしかない。
それを追ううちに、自分の軸を失っていた。
SNSを開けば、同年代が次々に家を建て、出世して、旅行に行っている。
彼らが“普通”に見えて、自分だけが取り残されたような気持ちになった。
気づけば、普通でいるために努力して、
普通でいられないことに苦しむという、矛盾したループの中にいた。
自分の軸を取り戻すきっかけ
そんな中で僕を救ってくれたのは、“資産”という考え方だった。
きっかけは、「経済的に安心できたら、生き方を変えられるかもしれない」という希望だった。
つみたてNISA、インデックス投資、家計簿の見直し。
小さな積み重ねだったけど、数字が少しずつ増えていくことで、
「自分の努力が形になる」という感覚を取り戻せた。
それは、他人の評価ではなく“自分が積み上げた結果”。
誰かと比較しなくても、自分を認められる瞬間だった。
お金そのものが救ってくれたわけじゃない。
ただ、“安心して暮らせる力”を持てたことで、
僕はようやく「他人の普通」に振り回されない生き方を選べるようになった。
普通の定義を、自分で決めていい
世の中の“普通”は、時代とともにどんどんハードルが上がっている。
「30代で家を買うのが普通」
「子どもが2人いて年収500万円が普通」
でも、今その条件を満たしている人の方が少ない。
SNSがそれを“みんなの現実”のように見せるから、
僕らは勝手に「自分は遅れている」と感じてしまう。
昔は“普通”でいることが安心だった。
でも今は、“普通”でいようとすることが苦しい。
普通を維持するために走り続ける時代になってしまった。
だからこそ、自分にとっての普通を再定義する必要がある。
僕にとっての「普通」は、静かに生きられること
僕にとっての普通は、
「心穏やかに、家族と安心して暮らせる毎日」。
出世しなくてもいい。
マイホームがなくてもいい。
誰かにすごいと言われなくてもいい。
毎朝、家族とご飯を食べて、
夜にほっとできる時間がある。
それが、僕の“ちょうどいい普通”だ。
この感覚を持てるようになって、
比べることに使っていたエネルギーが、
“今を生きる力”に変わっていった。
終わりに:「普通」を手放したら、人生が少し軽くなった
“普通”は、誰かが作った安心の形かもしれない。
けれど、それを基準に生きると、
自分の幸せまで他人に預けることになる。
だからこそ、自分で決めていい。
「これが自分の普通でいい」と言えるようになった瞬間、
世界のノイズが静かになり、人生が少し軽くなる。
普通に苦しんでいる人へ。
あなたの普通は、あなたが決めていい。
そしてそれは、きっともう十分に素敵なものだから。

